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1. 囲碁のススメ(1) 2.夢の記憶と、夢の中の記憶 3..囲碁のススメ(2) 4.じゃんけん 5.白と黒 6.碁才のない私が六段になるまで 囲碁入門・超ミニ講座 |
No.1 2008年11月7日 囲碁のススメ(1)●かわいそうな猫 「猫はかわいそうだなあ。碁が打てないから…」 あるプロ棋士が愛猫を見つめながら、真顔でそうつぶやいたそうです。ちょっとした囲碁通なら日本棋院の名物棋士であるこのプロ九段がどなたなのか、ご存知でしょう。 この先生の気持ちはよくわかります。囲碁を愛する人は、そのすばらしさを誰かに伝え、気持ちを共有したいもの。「猫がかわいそう」というのは、猫に人間並みの感情移入をした上で、「碁が打てないのか」とがっかりした気持ちを表しているのかもしれません。 人間ならもちろん、どんな人でも碁のルールや目的はすぐに理解でき、教えて10分後には碁を打つことができます。 ●囲碁と将棋の違い 囲碁のルールは簡単で、将棋のように駒の動かし方を覚える手間はありません。しかし、問題はそこからです。せっかく碁を教えても、最初のうちは「何をやっているのか、わからない」という方がほとんどだからです。 囲碁は「ポン抜きを覚えて30級」といわれます。そして初めの頃は、1局打つごとに1級ずつ強くなるほどの勢いで、たちまち15級〜20級くらいになります。しかし、その段階になっても、まだ碁をあまり面白く感じない方が多いのです。 将棋ならどうでしょうか。駒の動かし方を覚え、王の詰ませ方を覚えれば、ウルトラ初心者の段階でも将棋の面白さを感じるはずです。将棋は、古代インドで戦争をモデルに考案された“チャトランガ”という4人制双六が発展したものです。それだけに将棋は具象的にイメージしやすく、白と黒の抽象世界である囲碁と比べて親しみやすさがあります。 囲碁と将棋の性質の違いが、とっつきやすさに差を生んでいることは確かでしょう。その上、江戸時代に僧侶や武将がたしなんだ高尚なイメージの囲碁に対して、将棋は「熊さん、八つぁんの縁台将棋」でおなじみの庶民的なイメージがあります。 ●「ヘタの横好き」のレベル 碁が面白いものだと誰もが感じるのは、アマ初段に星目(置石9つのハンデ=9級差)で打てるようになった頃でしょうか。 口の悪い高段者に言わせれば、碁を覚えたての頃は、「碁とは異なるゲーム」をやっている状態です。それが上達して、ザルで水をすくうような碁、つまり「ザル碁」のレベルに達します。さらに進化するとようやく「ヘボ碁」の域に達する。それが1桁の級です。 晴れて「ヘタの横好き」の仲間に入ると、初段が現実的目標になってきます。もう、碁がやめられなくなるでしょう。そして次の段階は「好きこそものの上手なれ」となるわけです。 碁を教わって、最初は面白いと感じなくても、いろいろな人と打ち続けていくことが大切です。そのうち「面白い!」と思える瞬間が必ずやってきます。碁のルールだけは知っているという方も、碁が打てる人を探してぜひ再開してください。 No.2 2008年11月16日 夢の記憶と、夢の中の記憶人が見た夢の話を聞くのはつまらないものです。でも、話す本人にしてみれば、あまりに奇妙な場面に感動して、誰かに伝えずにはいられないのでしょう。 元来、夢は支離滅裂なものであり、奇妙キテレツなのが当たりまえ。その昔、フロイト先生の影響が強い時代に、夢は「潜在願望の現れ」とされましたが、今では「大脳が記憶を整理している」という学説が常識となっています。ひところ流行った「夢判断」もすっかり影を潜めました。 夢の話を聞かされる側からすれば、夢判断をする楽しみもなく、荒唐無稽なストーリーに付き合わされてはたまったものではありません。 と、ここまで書いてから、私自身の夢の話をするのは気が引けますが、誰にもよくある夢の話の一例として、しばらくはご辛抱のほどを。 20年ほど前によく見た夢です。 夢の前半は忘れましたが、何やら怪しげな2、3人の男たちに追われて、私はとある製材所にたどり着きました。どうやら子供の頃よく遊んだ近所の製材所のようですが、見慣れないコンクリート作りの大きな平屋が建っています。建物には窓が一つもなく、不気味な雰囲気ですが、かまわず私は中に逃げ込みました。建物の下は地下道が迷路のように張り巡らされ、ところどころに鉄の扉がある。思いきってその一つを開けてみると、そこは場違いに明るいスナックで、なぜか中学時代の同級生と会社の同僚がいっしょに……。 もうこれ以上は退屈なので省きましょう。 製材所の地下迷路はその後、何度も夢の舞台に現れました。現実には存在しない人物も、夢の中では既知の人として登場してきます。無秩序なはずの夢の断片は、あたかも遠く離れた池や泉が地下水でつながっているが如く、連続した一つの世界を形成しているのでした。 実在しない人物や風景が織り成す荒唐無稽なストーリーは、夢の中では過去にさかのぼってしっかり記憶されています。ところが目覚めてみると、その記憶の大半は消えうせ、たくさんの夢同士がつながっていることさえ気がつかないのです。 夢の中でしか思い出せない記憶。その存在をどうして知り得たのか、不思議に思うかもしれませんね。それはあるとき、夢の中で「これは夢だ」と確信したからです。感動のあまり私は、目覚める前にその記憶を反芻(はんすう)しました。その直後に夢から覚め、夢の中でのみ存在する一連の記憶があることを知ったのです。 そのことがあってから、私はあることを思いつきました。半覚醒の状態で夢を見続け、自分の意思で夢をコントロールすることです。 筒井康隆のSF小説に、夢を完全にコントロールし、毎晩、破天荒な別の人生を楽しむ男の話がありますが、そんなことが可能かどうかを試す意味もありました。 夢のコントロールが難しいのは、まず夢の中でそれが夢であることに気づかなければなりません。ところが夢だと悟った瞬間に、ほとんどの場合、目が覚めてしまいます。それを防ぐテクニックがなかなか難しいのです。やっと目が覚めるのを防ぎ、夢を見続けることに成功しても、次の瞬間それが夢であるであることを忘れてしまう。そんなこともよくありました。 何度か試みているうち、ついに私は、夢のストーリーを自分の思い通りに変えることに成功しました。一度成功すると、何度もそのチャンスは訪れます。今度は長い間、夢をコントロールできるための練習です。しかし、それは至難の業でした。 そこで得た結論は、夢のコントロールに成功しても、ちょっと興奮すると目が覚めてしまうということでした。つまり、夢はなかなか思い通りにならない。夢を支配して楽しむよりは、現実の“夢”の実現に向かって楽しむほうがはるかによいということです。 No.3 2008年11月22日 囲碁のススメ(2)●手談 囲碁の効用はいろいろありますが、個人的な体験でいえば、人間関係を広げるということがいちばんでしょうか。 社会に出るまでのお付き合いは、同じクラスやクラブ、サークルの人が中心になるのが、日本社会の特徴です。都会人のフリをしていても、本質的には小さな「村社会」に生きているのですね。 ところが社会に出ると、好むと好まざるとにかかわらず、異なる世代、異なる専門領域、異なる社会的地位の人と付き合わざるを得ません。学生時代には性格的相性があまりよくない人を避けることができましたが、社会人にはそれも許されません。私も就職してから、人間関係にはとまどいました。 そんなときに役立ったのが囲碁と将棋です。最初の就職先が、たまたま囲碁や将棋の好きな人が多かったことが幸いしました。何を話したらよいのか見当もつかない会社の幹部、こわそうな先輩、普段あまり関わりのない部署の社員。これらの人たちと一局お手合わせをするだけで、妙な連帯感が生まれました。自分の存在がはっきりと認められた瞬間でもあります。 囲碁が別名「手談」といわれることはその後に知りましたが、まさにその名のとおり、盤上で双方の石が対話をしているのですね。 ●右脳と前頭葉 碁の強さは、学校の成績や仕事の能力とは必ずしも一致しません。それは碁が主に右脳を使うゲームだということと関係がありそうです。 これは将棋やチェス、オセロなどにもいえることですが、盤上ゲームでは、現在の場面から未知の局面へ石や駒を一手一手、視覚的に描いていかなければなりません。頭の中でパターン認識をする作業は、右脳の働きです。知識や経験がものをいう学業や仕事とは異なるゆえんです。 もちろん、こうした右脳の能力はトレーニングによって獲得されるものであり、「1000局打てば誰でも初段」というのもそうした意味と考えるべきでしょう。 盤上で勝負を争うゲームは、右脳ばかりでなく、前頭葉も大きな役割を果たします。前頭葉は意欲や計画、工夫、実行などをつかさどっています。認知症にかかると、記憶力がだんだん低下していくことはよく知られていますが、その前に意欲の低下が見られます。意欲の源である前頭葉は、人間が人間として機能するための、大脳の司令塔のような役割を果たしているのです。 碁の効用、その第二は右脳と前頭葉を鍛えるということでした。 ●戦略的思考 碁に慣れ、いろいろな形や手筋を覚えて初段が近づいてくると、多くの人が壁にぶつかります。「パターン認識」から一歩抜け出した戦略的思考が求められるのです。 碁は最終的には相手よりも多く地を囲う「陣取りゲーム」ですが、石を取ったり取られたりする意味では「生存権の争い」でもあります。実戦では、目先の地(現ナマ)を取るか、それとも戦いに強い厚み(将来への投資)を選ぶか、というジレンマがあります。量と質という異なる判断基準を意識することが、戦略的思考のスタートラインです。それは碁の深い喜びの領域に踏み込む瞬間でもあります。 「厚み=将来への投資」がわかって碁が打てるようになるのは、アマ三段くらいからです。3級から三段までは、戦略的思考法を得るための長い道のりです。ここを短期間で一気に駆け抜ける人は、碁才のある人といえるでしょう。 ちなみに、私が「長い道のり」を抜け出したのは三十代半ば。実に十数年の歳月を必要としました。碁才とは無縁の私が誇れるのは、ヘボ碁を打つ人の思考法が手に取るように分かることです。 No.4 2008年11月30日 じゃんけんあれは小学生の頃だったか、よく「じゃんけん相撲」で遊んだことがあります。 じゃんけん相撲は、あらかじめ一人当たり3力士くらいの四股名を決めておき、じゃんけんで勝敗を決めて星取表を作るという単純な遊びです。一回一回のじゃんけんに一喜一憂し、場所が終わるとその成績により、番付を編成しなおします。 手持ちの力士が大関、横綱になるまでには何十場所もかかるので、たいていはその前にゲームに飽きた人が抜けて、中途半端のまま終わるのが常でした。 じゃんけんは100%運のゲームです。勝負を長く続けるに従って勝率は限りなく5割に近きます。しかし、実際にはじゃんけんに強い人と弱い人が存在することも確かです。 5割の確率といっても、短いスパンをとれば著しく偏った結果も生じます。先ほどのじゃんけん相撲の例でいえば、たとえば「北極熊」が8勝2敗で、「剣が峰」が3勝7敗などというように、偏った結果になることは珍しくありません。10回連続勝つことだって1024分の1の確率で起こるわけですから。むしろみんなが5勝5敗になることのほうが、よほど「奇跡的」といえるでしょう(数学に強い人は、10力士が全員5勝5敗になる確率を計算してみてください)。 さて、勝敗を100%運にゆだねているじゃんけんにおいて、強い人と弱い人がいるのはなぜでしょうか。ある人は「じゃんけんにも技術がある」といいます。そしてまた別の人は、「運のいい人と悪い人がいる」といいます。 では、じゃんけんで運のいい人は、他のことにも運がいいのでしょうか。また、「じゃんけん運」というものがあるとすれば、その人は一生「じゃんけん運」が強いのでしょうか。 運の良し悪しは多分に主観的な要素が入るので、一筋縄ではまいりません。運についての議論に決着をつけるためには、おびただしい数のサンプルを集めて統計的処理を行う必要があるでしょう。 技術についてはどうでしょうか。じゃんけんに技術があるのなら、1冊くらいそうした解説書が書店の棚にあってもよさそうなものですが、さっぱり見かけません。自他共に認めるじゃんけんの名人がいたなら、ぜひ本を書いて欲しいものです。 私が長年、観察した感想を述べますと、じゃんけんに強い人は「指運の強い人」だと思います。 一般に男性は、力むとグーを出す率が高くなります。次はパーです。チョキという複雑な指の動きは、少しゆとりのあるときでないとなかなか出せないのです。 一方、女性は勢いよく握りこぶしを突き出すようなことを避ける傾向があります。指の美しさを強調できる繊細なチョキが女性の好みなのでしょうか。比較的多いように感じています。 もちろん、男女に関係なく人それぞれに自分では気づかない癖があります。何も考えないとパーを出してしまう人も少なくありません。ですから、作戦なしの場合は指運=クセで勝負が決まることが多いのです。 じゃんけんに技術というものがあるとすれば、人それぞれのクセをいち早く見抜く眼力です。最初に何を出すのか。そして「あいこ」になったときに、どんなクセが現れやすいのか。瞬時にそれを読み取り、作戦を立てる能力がじゃんけん技術です。 それとともに、自分の傾向を悟られないランダムな出し方も必要になってきます。かくして、名人同士の戦いは、乱数表同士の戦いに次第に近づきます。 こうして、長期戦になればなるほど、じゃんけんはつまらないゲームになり下がるのです。冒頭のじゃんけん相撲がすぐに飽きてしまったのも、そうしたことが原因だったのかもしれません。 No.5 2008年12月11日 白と黒囲碁に「烏鷺(うろ)」という別名を与えた昔の人は、なかなかの風流人です。黒石と白石をカラスとサギになぞらえたものですが、切る、殺す、死ぬ…などのぶっそうな用語が多い囲碁に、文学的なイメージを与えています。 白と黒のゲームといえばほかにオセロがあります。オセロは白と黒が裏表になっており、一手ごとにコマの色が変わる可能性があります。中盤までは自分の駒は少なめに取るのがオセロに勝つコツで、多く取ってしまうと自分の打てる場所が極端に制限され、形勢が苦しくなります。最後の数手で真っ黒だった盤が真っ白になったり、あるいはその逆になったりするところから、開発者がネーミングをオセロとしたことはあまりに有名です。ここでも文学の力を借りています。 勝負の世界では白黒をはっきりさせなければなりませんから、石や駒を白と黒に分けるのはごく自然です。しかし、現実の社会ではどうでしょうか。賛成か反対か、善か悪か、光か闇か…。 小泉元首相は総選挙で、「郵政民営化に賛成か反対か」の一点に絞って争点を単純化し、国政のさまざまな問題点をぼかすことによって、自民党の圧勝を勝ち取りました。その結果、さまざまな歪みをもたらしたことは多くの識者の指摘するところですが、問題は「白か黒か」の単純化がいまだに政界にはびこっていることです。マスコミ報道がそれに一役買っていることも見逃せません。 そもそもこの世に完璧に正しいことや間違ったことがどれだけ存在するでしょうか。どんな考えにも一長一短があります。あちらを立てればこちらが立たず。政治の世界ではその利益配分をどうするかを巡って、大多数の人が納得する調整を行わなければならないはずです。 ところで、色彩物理学の定義では、自然界に純粋な白と黒は存在しないことになります。 理論上の純粋の白とは、光を100%反射する物質であり、純粋の黒は100%吸収する物質です。最も純白に近い物質は酸化マグネシウムや硫酸バリウムだそうですが、反射率は99%を超えるものの100%ではありません。私たちが白いと思っている絵の具や雪、紙などは純白ではなく、厳密に見ればほかの色やグレーが混じっているのです。 色の名前にもその辺は現れていて、スノーホワイト、パールホワイト、フロスティホワイト、アイスホワイトなどの区別があります。このうち最も白いのがスノーホワイトで、ヒトの目が「純白」と感じる 「色」です。パールはその名のとおりですが、フロスティ(霜)はややグレーみをおび、アイスはかすかに青みがかった白をいいます。 純粋の白と黒の間には無限のグレーゾーンがあり、人間が見分けられる階層だけでも200〜300はありそうです。ものごとを白と黒の二つに分ける思考法は、グレーゾーンのどこかで線を引いて、明るいグレーを白、暗いグレーを黒と呼ぶことと同じです。これは典型的なデジタル思考です。 デジタル思考の弊害は、人の性格を「ネクラ」「ネアカ」と分ける風潮にも現れています。そんなに人の性格を単純化していいものでしょうか。この世に、自分とまったく同じ性格の人は存在しないはずなのに…。 そもそも「ネクラ」とはタモリさんが、明るくふるまっている人の心の奥底に潜む「白樺派」的な軟弱さを見抜き、それを独特の皮肉で表現したものではなかったのか? 表面は明るいけど、根は意外に暗い。それがネクラ本来の意味で、人間の性格の複雑さを表していたはずです。 それを多くの人が誤解し、表面が暗いことをネクラというようになってからは、もう止まりません。「根」と「表面」の意味を取り違えるほど、現代人の国語力は低下してしまったのでしょうか。 もっとも、「みんなで間違えればそれが正解」になった慣用読みの例もたくさんありますから、もはや何を言っても手遅れ…。でも、人間の性格って、もっと複雑怪奇なものですよー。 ということで、また最初の囲碁の話にもどります。 勝負の世界は勝つか負けるか、文字どおり白黒をつけなければなりません。内容がどんなによくても、土壇場で失敗して負けることがあります。僅差の勝負もあれば、ワンサイドで決まる場合もある。どれも勝ちは勝ち、負けは負け。グレーゾーンがないところは非情です。 しかし、同じ負けでも、「明日につながる負け」というものが勝負事にはあります。同じ黒星でも、虹色に輝いている黒星。反対に勝負には勝っても、ブルーグレーにくすんだ精彩のない白星。 碁から生まれた言葉に「捨石」があります。助かる石なのにあえて敵に取らせる。捨石は、部分的には損をしても、全局的に優位に立つ高度な戦略思考です。 「右をあげるから左をくださいな」「それなら私も右はいりません」…などと、お互いが虚実のかけひきを繰り返しながら勝負を争います。 結果は白星と黒星でも、そのプロセスでは黒石と白石が火花を散らし、無数の色が響き合ってドラマを作っているのです。「白か、黒か」に分解したデジタル思考では、プロセスが切り捨てられ、ドラマがつまらなくなります。 No.5 2008年12月30日 碁才のない私が「六段」になるまでヘボ碁時代 私が碁を覚えた時期は定かではありませんが、高校に入る前だったかと記憶しています。当時の世間一般の例に漏れず、父から手ほどきを受けたものです。ただし、碁の手ほどきとはいっても父はアマ5級のヘボ碁。いま思えば、ずいぶん誤った碁の考え方を吹き込まれたようです。 そんなわけで、記憶力、理解力、感受性が人生で最も鋭敏な時期に碁を打っていたにもかかわらず、棋力は遅々として進まず、父に6〜7子置く状態が長い間続きました。しかし、ひとたび「10級の壁」を越えると、棋力はたちまち父に並びました。 とはいうものの、それは「ザル碁」が「ヘボ碁」に進化したに過ぎません。高校卒業時が5級。その10年後もまだ3級あたりを低迷していました。当時、碁よりも将棋のほうが面白いと感じており、道場では初段で指していました。そんなわけで囲碁については、自分にはまったく才能がないと決めつけていたのです。 「初段の壁」を破るきっかけ 将棋に飽き始めていた20代の終わり頃に、私が碁に熱中することになった一つの出来事がありました。 それは、5つ年下の弟と久々に碁を打って、完膚なきまでに打ち負かされたことです。弟には昔、碁の相手欲しさに嫌がるのを無理やり教えた経緯があります。その弟に黒番でも勝てず、「今度は2子置け」と生意気なことを言われては、兄としては本気にならざるを得ません。さっそく、基本定石を解説した本を買って、碁の勉強を始めました。 囲碁川柳に「定石を覚えて2目弱くなり」などとありますが、基本的な形も筋もわかっていない人には、定石の勉強は効果があります。いくつかの定石やその変化を覚えるうちに、部分の形がしっかりしてきました。 定石は古今の天才たちが積み上げてきた「碁の宝物」です。「定石を鵜呑みにするな」とか、「形にとらわれるな」などと、プロやそれに近い人たちは口をそろえて言いますが、それは定石をしっかり覚えてのちの問題です。まずは形から入り、深い意味はあとから徐々にわかってくる。それが囲碁に限らず古来、芸事を身につけるためのセオリーです。 初段前に覚えた定石の意味がわかってきたのは、四段に昇段した頃でした。それは、碁にとって大切な「厚み」という概念がわかり始めてきた時期と重なります。 環境が碁を強くする 碁が強くなるには何がいちばん必要かと問われれば、私はためらわず「環境」と答えるでしょう。才能がものをいうのは四、五段から先の話です。 碁が強くなる理想的な環境は、身近に競い合えるライバルと、目標となるちょっと強い人がいて、さらにしっかりとした碁の考え方を教えてくれる指導者がいることです。しかし、大多数の方にとってそのような理想的な環境を望むのは難しいでしょう 私の場合は、理想的とはいえないまでも、要所でタイミングよく2人の師匠にめぐり合うことができたことが幸いしています。 1人目の碁の師匠は会社の社長です。当時3級の私は石を6つも置かされ、ずいぶん強い人がいるものだと感心しました。高段者と碁を打った経験のない私は、気持ちが萎縮しているからまったく勝てません。しかし、ぼちぼち勝てるようになるとあっという間に4子になり、その後、再度の低迷期を乗り越えると一気に2子にまで接近しました。2子局でも勝つようになると、もう上手はあまり気軽には碁を打ってくれなくなります。社長も例外ではありませんでした。 そんなときに現れたのが第2の師匠です。取引先の営業の方ですが、彼の強さにも驚かされました。当時アマ三段の私に、石を5つ置けというのです。それでも始めの頃は碁にならず、私は自分の非力さを思い知らされました。あまり楽しくない詰碁の勉強を始めたのはその頃です。 第2の師匠は終局後、必ず打碁を並べ直して細かく教えてくれました。そうした指導法と詰碁が功を奏したのか、私は2年毎に昇段し、とうとう場所によっては六段を名乗れるほどの棋力を身につけたのです。 その後、十数年間、私の棋力は止まったままです。私の碁才の限界なのか、それとも碁を打つ環境が不十分だったせいなのか…。原因は後者にある、と思いたい気持ちはあります。 トップへ Copywrite: Akira Takayama |
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