第1章「脳の使い方を変えよう」 C.記憶術の歴史
8.かつて記憶術は見世物だった?記憶術がいかにすぐれているかを人に認めさせるには、実演をやって見せるしかありません。 それもすでに知っているかもしれないことを覚えるのではダメで、その場で脈絡のない単語や短文か、数字などを見物人に出題してもらい、ふつうの人が一度に覚えきれないほどの量を暗唱するというのが、唯一といってもよい方法です。 記録に残る最も古い記憶術の実演者は、日本では明治20年代に記憶術の本を書いた和田守菊次郎という人かもしれません。 彼はある日、東京の帝国ホテルに人を集め、100人の聴衆に任意の言葉を読み上げてもらい、それを順番に覚えることに挑戦しました。そしてすべての言葉を間違いなく覚えることに成功したのです。このパフォーマンスは新聞に大々的に取り上げられることとなり、和田守の名は和田守式記憶法と共に一気に有名になりました。 しかし当時、欧米の記憶術の翻訳本が何冊か出版されており、その記憶法を和田守自身が考案したとは素直に考えられない面があります。彼が書いている本の中で「帳簿法」いう記憶テクニックがありますが、これは「基礎結合法」と同じもので、欧米の記憶術翻訳本で解説されている、代表的な記憶術の一つでもあります。いずれにしても、記憶術は一個人が独力で考案できるほど底の浅いものではありません。 さて、昭和の初期になると、日本にプロの記憶術家が現れました。でも、どうやって生計を立てていたのかは不明です。書道塾やそろばん塾のように人に教えていたのでしょうか。あるいは、実演をやってお金を稼いでいたのかもしれません。 実演といえば、大道芸人が戦後もかなり長い間、路上でさまざまな芸を披露していました。そしてその中に記憶術家が交じっていたことは確かです。 円周率の暗唱で1988年から8年間、ギネス記録を保持した友寄英哲氏の著作「脳を鍛える記憶術」に、そのことが書かれています。 友寄氏は22才のときに、神田神保町で大道芸人と出会ったのが、記憶人生の始まりだと述べています。その大道芸人は、黒板に書かれた30ケタの数字をまたたくまに暗唱して見せ、「これを読めばだれにでもできるよ」と10ページばかりのガリ版刷り小冊子を売っていたそうです。記憶術は大道芸という見世物になることによって、明治以来、細々と生き延びてきたのかもしれません。 それはともかく、友寄氏はこの小冊子を出発点にして、やがて欧米の記憶術にたどり着きました。さらにその記憶術に改良に改良を重ねて、円周率の暗唱で何度も世界記録を塗り替えるほどの最高到達点に達したのです。 ところで円周率の暗唱は、普通の記憶術の実演とは大きく異なります。 それはまず、円周率では覚えることにいくら時間をかけてもよく、覚えている最中の姿を公開できないことです。もう一つは、覚える対象(数字)は無限にあるということです。しかし、間違いなく暗唱したかどうかは多くの証人と時間を必要とします。 ちなみに、友寄氏が4万ケタの暗唱に成功したときは、17時間21分を要しました。円周率暗唱は、証人になるのも体力勝負の恐ろしいイベントです。 9.古代ギリシャで生まれた記憶術有名なシモニデスのエピソード 記憶術に関する最も古い記録は、あのアリストテレスやプラトンが活躍した古代ギリシャが舞台になっています。 紀元前5〜6世紀頃、ギリシャのケオス島に詩人シモニデスという人がいました。彼は宴会に出て演説を終えた後、二人の男が外で待っているという伝言があったので、宴会場の外に出ます。シモニデスが建物の外に出た瞬間、大地が揺れて建物が崩れ落ち、中にいる宴会に出席した人は全員死んでしまいました。 瓦礫(がれき)を取り除いた下から見つかった遺体は損傷が激しく、家族でも見分けられないほどだったそうです。ところがただ一人、大地震から難を逃れたシモニデスは、宴会の席順を一人残らず覚えていたのです。 彼が覚えていたのは、テーブルやいすの配置、柱の場所などに出席者一人ひとりを結びつけて記憶していたからです。 この話にはおまけがついており、シモニデスを外に呼び出した二人の男はついに現れなかったということです。そのため人々は、双子の神が彼を呼び出して救ったのだとうわさをしました。 このエピソードは後世に語り継がれ、ヨーロッパでは彼のことを「記憶トレーニングの父」と呼んでいます。シモニデスの名は前述の和田守菊次郎や渡辺剛彰の著作にも登場してくるほど、記憶術の世界では有名です。 なお、記憶術の英語名mnemonics(ニーモニクス)は、ギリシャ神話のMnemosyne(ニーモシュネ、またはムネモシュネ)に由来します。ニーモシュネはあらゆる分野の知的活動をつかさどる9人の女神の母であり、過去、現在、未来のすべてを記憶していたといわれる女神です。古代ギリシャでは記憶が非常に尊重されていたのです。 10.ローマ人が後世に遺した記憶術雄弁家キケロ、3時間の大演説 古代ギリシャで誕生した記憶術は、紀元前85年頃、無名のラテン人青年の書いた本によって帝政ローマに伝えられました。 「ヘレニズム宛修辞学」という、なにやら難しそうな題名のその本は、ギリシャ人の原典を最も完全に伝えているといわれます。無名の青年の書いた1冊は、当時の偉大な政治家にして哲学者、弁論家であったキケロの目にとまることになります。 キケロは3時間も休まずに演説を続けられるという超人でした。しかもその演説は、彼が書いた草稿と寸分狂わぬ同じものだったといわれます。キケロによって、ギリシャ人の生んだ記憶術は、ローマ人のものとなったのです。 キケロは「弁論家について」という本を書いて、広くラテン世界に記憶術を広めました。彼はその本の中で、記憶力は生まれつきのものではなく、記憶力トレーニングによって改善できると述べています。 古代ローマに広まった記憶術を後世に伝えるのに貢献したのは、クィンティリアヌスの著作だといわれます。その本の名は「弁論家教程」というものですが、このことからも当時の記憶術が弁論家にとって必需品であったことがうかがえます。 クィンティリアヌスはその本の中で、ギリシャのシモニデスが使った「場所に結びつける」という方法を、ローマの邸宅内の柱や家具などの配置に応用しています。 ページトップへ Copywrite: Akira Takayama |